2015/08/23

戦後70年、戦時の体験を語りつなごう 第93回荒屋悠々サロン

昨日(8月22日)午後1時30分から、荒屋会館において第93回目の荒屋悠々サロンが開催されました。
昭和20年8月15日、終戦の日から70年過ぎました。安倍首相の談話が発表され、国民の大多数が相応しい内容だったと評価されているところです。
荒屋悠々サロンは、70年を迎えた節目のこの機会に、参加者から戦時中の体験談を聞き、若い世代に戦争の何たるかを伝えることにしました。
体験談の前に、東京大空襲にまつわる童話「ちいちゃんのかげおくり」を中屋暁子スタッフが朗読しました。
「ちいちゃんのかげおくり」を朗読するスタッフ

大空襲の無残さに耳を傾けた
朗読が終わり、体験談を語り合うことになりました。
Aさん
その時は小学生だったが、米軍の飛行機が上空をよこぎるときは土手に身を伏せて飛行機が去るのを待った。金沢でも警戒警報が頻繁に発令された。
父が出征した時、見送りに出たが、もう父は帰ってこれないと思った。でも、終戦間もなく帰還した。
Bさん
富山空襲は、表現が良くないが空が花火のようにきれいだった。
Cさん
大阪から羽咋の親戚の家に疎開した。子供心にも「配給のコメが増えない」と云われ、肩身が狭い思いをした。
Dさん
父が海軍の職業軍人だったので舞鶴に住んでいたが、3歳未満の筈なのに空襲で母の背中におんぶされ薄暗く水たまりのある防空壕に避難した記憶がある。防空壕を出ると煙が立ち込めた風景が浮かぶ。
母から聞いた話だが、昭和19年、父は駆逐艦に乗艦していたが、台湾の高雄に寄港した時、たまたま盲腸炎を発症し、高雄海軍病院に入院した。癒着したため40日間ほど入院した。退院前に駆逐艦が出港し間もなく米軍の潜水艦に攻撃され轟沈。宇出津の実家にいた母に戦死公報が届いたので悲しみにくれたが、入院中で難を逃れて生存がわかった時ほどうれしかったことがない・・・・と。
Eさん
私の主人は上海の中学にいたとき終戦になった。主人の父が上海で会社経営をしていたので、従業員家族に20万円づつ支払い解散したと後で聞いた。当時の20万円と云えば大金だが、主人の分け前は何もなかった。
Fさん
墨塗りの教科書の話しがあったが、私の記憶ではそのようなことがなかった。

余談:今回欠席されたGさんから聞いた話
16歳で海軍に志願して舞鶴鎮守府で勤務した。戦闘機が度々空襲にきた。終戦間近のある日、若干名が福井、七尾、富山に転勤だという話が出て幸運にも七尾部隊勤務に割り当てられた。
仕事は海軍軍需物資の管理。食糧難どころか、お蔭で白い飯がふんだんに食べることができた。
終戦で海軍解散の時、何かほしいものがあれば申し出よと伝達があり、馬1頭もらい志賀の自家に引いて帰って親から大変喜ばれた。

戦後70年といえば、当時20歳だった人は今年で90歳。戦争体験談を聞く機会は間もなくゼロになるだろう。今回の体験談を聞いて、戦争の悲惨さの思いを新たにする良い企画であったと考えます。

お茶タイムは戦時中の思い出をそれぞれが語り始めて大いに盛り上がりました。
唱歌合唱では、金沢望郷歌、鉄道唱歌、夏の思い出等数曲を皆で歌いました。
最後は恒例の「いいね金沢健康体操」で締めくくりとなりました。










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